2013年
監督:新海誠
脚本:新海誠
作画監督・キャラクターデザイン:土屋堅一
美術監督:滝口比呂志
音楽:KASHIWA Daisuke
秋月孝雄:入野自由
雪野百香里:花澤香菜
タカオの母:平野文
秋月翔太:前田剛
寺本梨花:寺崎裕香
松本:井上優
佐藤:潘めぐみ
相沢:小松未可子
伊藤宗一郎:星野貴紀
「君の名は」を観てから本作を視聴した。
「君の名は」もそうだったが、本作はより川端康成の作風に近いと感じられた。
といっても日本庭園や梅雨、和歌など〈和〉のガジェットを使っているからとか、感情描写が多く叙情的だからとか、人物描写やナレーションが薄く行間が広いからとか、主人公が青臭いからというわけではない。
川端作品と新海作品の共通点は、論理的考察が作品の美を必ずしも深めないという点にある。
比較すると長くなりそうなので、以下本作においてのみその点を考えてみたい。
「言の葉の庭」は物語としてあまりにも多くの事が不足している。
一方で、その不足を埋めるかのようにメタファーがちりばめられている。
雨、庭園、和歌、言葉、靴、歩く、などなど。
純文学に親しんできたものなら、それらのメタファーを丁寧に読み解き、監督の意図を探ろうとするだろう。
本来こうした作品は、メタファーをひとつ読み解くごとに理解が深まり、その作品の美に迫ることができるのだが、本作はメタファーについて少しでも考えを進めた途端に作品から美が薄れていくような感覚があった。
例えば、主人公は靴職人を目指している。
一方で教師の雪野は職場に通えなくなり人生の歩みを止めてしまっている。
歩み始めた者と歩みを止めてしまった者、この二人を結ぶ〈靴〉というガジェット。
では〈靴〉は 二人にとって何の寓喩(メタファー)となるのか?
雪野に前に進んで欲しい、その歩みを守ってあげたいという孝雄の気持ち、孝雄の若い好意に包まれたいという雪野の想い…。
ではその二人の前に広がる庭とは?
…といったことを論理的に紐解こうとすると、作品からみるみる美しさが消えていくような気がした。
雨については後半の重要なシーンにつなぐための伏線であるとも解釈できるが、やはりそれも美しくない。
ではそれらのガジェットは無意味なのか? 単なる情景や設定に過ぎないのか?というとそうでもないだろう。
さすがにこれだけかっちりと配置されたガジェットがメタファーでないとは言い切れない。
ではそれらをどう理解すればいいのか?
そのヒントとして川端文学が存在する。
川端文学はおおよそメタファーに対する論理的回答と言うものが存在しない。
しかも、作品からそれらを紐解こうとすればするほど美は薄れ、微妙な均衡を保っていた世界観は崩れ、いかにも醜悪で未完成といってもいいような作品に思えてくるのである。
しかし、読者が一度メタファーの答え合わせを止め、そこから醸し出される美をそのまま受けとめた時、作品はその芳醇な世界を垣間見せるのである。
もう少しわかりやすく例えてみよう。
一般的な作品が燻製肉だとする。
当然作者は肉をどれだけ美味しく、ジューシーに、栄養価の高いまま燻製できるかに苦心する。
読者(視聴者)もまた、その肉の味やボリュームに期待し、かぶりつく。
そんな中、肉そっちのけでどれだけ香りが高く美しい煙を出せるかに苦心する作者がいる。
それが川端康成や新海誠である。
話の面白さや奇抜さ、プロットや伏線の巧さ、個性豊かなキャラクター、ラストのどんでん返し、大団円、伏線回収、そしてメタファーのへの論理的回答、それらは〈肉〉である。
川端や新海は、その肉をほぼ丸々犠牲にしてでも上質な煙を燻しだそうとする。
だから肉の部分はいつもスカスカで、味がほとんど残っていない。
エンタメ慣れした読者(視聴者)は、いつものクセでその肉にかぶりつこうとするからがっかりし、人によっては怒ってしまうのだろう。
しかし、その肉から燻される煙に目を向け、それを味わおうとすると作品の美しさが一気に広がるのである。
煙のように随所から立ち上るメタファーの香りをかぎながら作品全体の雰囲気を味わうのが、「言の葉の庭」のある種正しい鑑賞法であると私は思う。
そうして見終わった時、日本庭園や、梅雨や、和歌、靴といったガジェットがどこか遠くでつながっているとかすかに感じられる。
何がどうつながっているのかはわからないし、つながっていないかもしれない。
それぐらい微かに感じておくのが一番美しいと思えた。
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