映画『天気の子』(@tenkinoko_movie)さん / Twitter
2019年
原作・脚本・監督:新海誠
音楽:RADWIMPS
キャラクターデザイン:田中将賀
作画監督:田村篤
美術監督:滝口比呂志
制作:コミックス・ウェーブ・フィルム
森嶋帆高:醍醐虎汰朗
天野陽菜:森七菜
須賀圭介:小栗旬
夏美:本田翼
冨美:倍賞千恵子
天野凪:吉柳咲良
安井:平泉成
高井:梶裕貴
今回も一目で新海作品とわかるほど美しい映像が楽しめるが、内容はめざらしく残酷。
また、わりとはっきりとしたメタファーを用いているところも新海作品としては珍しい。
以下考察。
本作の主題はエゴと代償。
物語の前提として、日本は異常気象に見舞われている。
人間はその異常気象を疎み、晴れを願っている。
本来人間にはどうすることもできない自然現象を疎ましく思い、どうにかコントロールしたいと願う人間のエゴが冒頭から作品全体を覆っている。
そこに天気をコントロールし、100%晴れをもたらすことができるヒロインの陽菜が登場する。
彼女は代価をもらうことで人間のエゴを叶えるシステムのメタファー。
システムには必ず犠牲が伴い、いつか終わりが訪れる。
陽菜の存在はそれを象徴している。
美しい映像と爽やかな人物造形からつい見逃してしまいがちだが、本作の登場人物たちは胸くそ悪くなるほどにエゴイスティックだ。
特に主人公の帆高。
親の心配を顧みず家出し、たまたま見かけた陽菜にはおせっかい、拾った拳銃を届け出ずに所持、その上発砲(護身とはいえ)。
陽菜に不思議な力があると知ると、彼女の気持ちも確認せずにすぐさまマネタイズに走る。
また、エゴではないが何かと知恵袋で質問するところも主体性がない。
正直、相当ヤバい人間だと思うのだが、いかんせん作画が爽やかで愛嬌があるので騙されてしまう。
この帆高が最後の最後にとてつもないエゴを発揮させるのだが、それは後で説明する。
須賀については誰しも納得できるだろう。
命の恩人のポジションを獲得すると、その代償として高校生に夕飯をおごらせる。
立場を利用して格安でバイトに雇う。
陽菜の力を知って娘との面会に利用、その後陽菜が異常気象を払うことで犠牲になり消えると分かっても、その方が自分と娘に都合がいいからと放置。
また、陽菜に晴れを依頼する人たちも、自然現象を意のままに操りたいと願っている点でやはりエゴイスティックな人間であると言えるだろう。
陽菜はそんな人間と自然の間に存在するシステムだと述べた。
システムには必ず犠牲が伴い、いずれ崩壊する。
人間はその犠牲に目を瞑り、なかったことにしてシステムの恩恵を受け、エゴを満足させる。
陽菜に晴れを依頼した人達は、陽菜が犠牲になっていることすら知らない。
安くて便利な商品を手にした人が誰かの犠牲なんて考えもしないように。
ただ、陽菜を天気の子にした帆高は彼女が自身を犠牲にし、人々の願いを叶えてきたことを知る。
そこで帆高はシステムの犠牲者としての陽菜を救うため動き出す。
すると陽菜自体は延命されるが、今度は自然が猛威を振るい、異常気象となって人々のエゴそのもの(生活、仕事、インフラ等)を飲み込んでいく。
天気を操れる陽菜は、帆高の気持ちを理解しながらも、システムの犠牲という自らの使命を全うし、異常気象を止めて人々を救う。
普通の作品ならここで「僕らは常に、誰かの犠牲の上に生きている…」というメッセージで締めるだろう。
しかし、新海監督はそんなぬるいところでは終わらず、主人公帆高のエゴをさらに推し進めていく。
帆高はシステムの犠牲となり異常気象を止めた陽菜を救いにいく。
恐らく彼は陽菜が救われたときまた異常気象が発生することを知っていたのだろう。
それでも帆高は警察の逮捕から逃れ、恩人の須賀にも逆らってあの鳥居を目指す。
(ちなみに、警察は完全にまっとうな理由で帆高を追っている。逃亡する帆高の方が100%悪い)。
陽菜を助けに向かう帆高は情熱的で感動を呼ぶ流れだが、よく考えてみればこれもまた陽菜の意志とは無関係で(陽菜は自分の意志で犠牲者となった)、帆高はただ自分の好きな女に消えて欲しくないというエゴで動いているにすぎない。
システムの犠牲者に(不本意とはいえ)既に諦めの気持ちがあり、そのことで明らかに何千何万の命が救われるとわかっていても自分の気持ちを押し通す帆高に共感はできない。
そこで流れる主題歌「愛にできることはまだあるかい」が、あまりにも意地悪な皮肉にしか聞こえない。
帆高の暴走は愛と呼んでいいのだろうか?
そうして陽菜を救った帆高はなんと陽菜にもエゴを勧める。
他人も、街もどうなってもいいから自分のために祈れと。
その結果、異常気象は再発、3年も雨が降り止まず、東京は水没。
人命や都市機能、経済にどれだけの損失が出たかは計り知れない。
そんなことを気にする様子もなく、帆高は自分の選択を「大丈夫だ!」と言う。
どこまでエゴイストなんだろうか?
恐らくこの「大丈夫だ!」は帆高の台詞というよりは、帆高を通して若者を観る新海監督の台詞だろう。
ここまでエゴイスティックに生きて、世界をかき回しても大丈夫なんだよ、と。
若者には響くのだろうか?
40代の自分にはさすがに響かなかった。
そのことがちょっと寂しく感じた。
本作の構造として、救いがどこにも存在しない。
1を救えば多が犠牲となり、多を救えば1が犠牲となる。
多くの答えがある中で、主人公に1を救いにいかせ、多の犠牲も描くには相当な覚悟が要っただろう。
私見だが、新海監督ひょっとして「君の名は」でさんざん童貞だの青臭いだのと批判されて怒ったんじゃないか?
僕だってここまでできるんだぞ! と己の覚悟を見せたのが本作のような気がする。
これだけエゴに突き動かされた帆高に、最後の最後で社会と和解させなかったのも偉いと思った。
これだけ好き勝手やらせて、異常気象は数ヶ月で終わり、またいつもの東京に戻った、陽菜は時々気まぐれに晴れをもたらしている……なんてぬるい終わり方をされていたら、新海作品は二度と観ないだろう。
本作を観て、改めて新海監督が物語りに誠実な作家だと安心した。
書き忘れたが、キャラのテンプレ感は次回はなんとかしてほしい。
帆高と陽菜が瀧と三葉にしか見えなかった。