1988年
監督:大友克洋
製作:脚本:大友克洋/橋本以蔵
作曲・指揮:山城祥二
キャラクターデザイン:大友克洋
作画監督:なかむらたかし
作画監督補:森本晃司
美術:水谷利春
音楽:芸能山城組
音響:明田川進
録音:瀬川徹夫
撮影:三澤勝治
編集:瀬山武司
金田:岩田光央
鉄雄:佐々木望
ケイ:小山茉美
敷島大佐:石田太郎
竜:玄田哲章
ドクター:鈴木瑞穂
タカシ:中村龍彦
キヨコ:伊藤福恵
マサル:神藤一弘
以下論考が長いのでめんどくさい人用に短縮すると、
- 話はすげーわかりやすい。
- 後半グロいから飯食いながら観るな。
- いろんなネタの元になってるからいっぺんは観とけ。
- わからんことはそのままでよい。
以下論考。
言わずと知れたジャパニメーションの金字塔。
30年経っても全く古さを感じさせないのが不思議。
萌え要素が完全に排除されていることが時代を超越する後押しをしているのだろう。
世界観としても、学生運動や暴走族、新興宗教、体制とレジスタンス、そして超能力少年という一見古くさい要素がてんこ盛りだが、2017年に改めて観てもやはり古さは感じられなかった。
それはおそらく、本作が普遍的な”人間”を描いているからだろう。
よく考えれば、AKIRAという作品の登場人物は驚くほど個性や人物的背景が排除されている。
主要人物の名前は
- 金田
- 哲雄
- ケイ
- 山形
- 大佐
と、ほとんど記号化されているといってもいい。
もちろん彼らにもフルネームがあるのだが、本編中は一度も出てこない(わずかに数度「島哲雄」と呼ばれたぐらいか?)。
また、彼らのバックグラウンドもすがすがしいほど省略されている。
一方で、個々の人物の立場とそこから生まれる行動原理は極限まで純化されているといっていいだろう。
おかしくなってしまった友達を助けよう(殺そう)とする金田、その金田を補佐する甲斐、あくまで軍人としての本分を全うしようとする大佐、科学的探究心に心を奪われてしまうドクター、依り代となるケイ、そして”力”に憧れ、”力”におぼれる哲雄。
彼らはいずれも、血肉の通った「キャラクター」というよりは、「原理によって純化された人間」に記号として名前を付けただけのように感じられた。
そうした原理によって純化された人間が動けばどうなるか?
視聴者は「感情移入」という労力を払わずして、即座に自分がキャラクターそのものと同化することが可能となる。
視聴者は金田というキャラクター(そこに付随する様々な要素)に惹かれるのではない、純化された”友情”が生み出す行動そのものに心惹かれるのである。
その器としてたまたま作品上に金田というキャラクターが適応されているが、その金田というキャラクター自体は(あえて)うすっぺらい設定となっているため、視聴者が彼をそのまま自分に置き換えることは容易である。
なぜなら、キャラクターが薄ければ薄いほど同化への抵抗が少なくなるからだ。
仮に金田という人物のキャラクターが濃く、バックボーンの描写が多ければ、視聴者は自分との差違(たいていは自分より背が高いとか自分より稼いでいるとかネガティヴな情報)をすぐさま見つけ、同化を警戒し、あるいは拒絶するだろう。
しかし、彼のキャラクターやバックボーンがほとんど空っぽで、その行動原理によってのみ人物が形成されていたとしたら、抵抗値はぐんと下がるはずだ。
そうして視聴者は”感情移入”という作業を飛ばして、実にやすやすとAKIRAのキャラクターと自分を結合させることができる。
友情に重きを持つ者は金田に、承認欲求を持つ者は哲雄に、仕事人間は大佐に……。
本作が独特の世界観や過激な描写を含みながらも、さほど視聴者を選ばないのはそのためであると私は考える。
余談だが、あえて主人公を記号(象徴)化し、感情移入の労を取らせずに読者に同化させるという手法は、大江健三郎の「個人的な体験」でも取られているので興味のある方はご一読されたい。
そうして純化された登場人物たちは、プロットを推進する役割も果たしてくれる。
本作はかなり特異かつ込み入った世界観にもかかわらず、ほぼナレーションがないまま進行する。
それでも状況や人物の心理などを見失うことはまずないだろう。
なぜなら、各キャラクターの行動原理が純化(一本化)されているからだ。
例えば、序盤を除き金田は終始哲雄のために動いている。
哲雄を助けるため、哲雄を自分の手で始末するため。
だから金田が出てくるシーンで視聴者が迷うことはありえない。
哲雄も、大佐も、ドクターも、主要キャラクターは全員同様である。
ケイの立ち位置は途中から分裂するが、それでも理解できなくなることはないだろう。
そうして各キャラクターは最後まで一環した行動を取るので、ナレーションなど全く不要となるのである。
緻密な背景やモブの描写がそれを助けていることも付け加えておく。
一方で、本作には謎も多い。
AKIRAとは何なのか?
あの老人のような少年少女は?
哲雄はなぜ暴走したのか?
最後はどうなったのか?
これに対する回答としては、以前「言の葉の庭」で述べたメタファーとの付き合い方がやはり適応されると思う。
未読の方のためにざっくりと説明すると、
- メタファーを論理的に読み解くべき作品とそうするべきでない作品がある。
- 後者はメタファーが放出する匂いを感じ、そのままにしておくほうが美しい。
例えば、「AKIRAとは絶対的なエネルギーであり誰もが持つ生命の記憶のようなもの」という説明が作中にある。
ここから誰しも、AKIRA=絶対的なエネルギー=核(またはそれ以上のもの)、生命の記憶=遺伝子(宇宙の記憶)と読み解くだろう。
そしてそのエネルギーを我欲のままに求め、手に入れたかと思った途端暴走が始まり、崩壊した哲雄は人類の象徴と読み解ける。
哲雄が完全にエネルギーに飲み込まれ、そこに飛び込んだ金田は哲雄の記憶の一端に触れるが、それもAKIRAの一部なのだろう(宇宙の記憶の一部としての哲雄の記憶)。
そこから助け出された金田と意味深な発言をして消えていく子供たち。
金田は絶対的なエネルギーとの共存を迫られた新しい人類の象徴とも取れる。
最後に金田の手の中にAKIRA(哲雄?)が消えていくことからもそれが読み取れる。
……と、この解読はかなり的を射ていると思うが、正直国語のテストの回答みたいであまりにもつまらない。
それよりも哲雄の崩壊とか最後の爆発とか金田が帰ってきたこととか、そうしたことをそのままそこから匂ってくるものを素直に受け止めた方が面白いし、感動がしっかりと残ってくれる気がする。
なんかすごいエネルギーがあってそれを人類が扱い損ねたらしい、ぐらいのとらえ方で十分だろう。
AKIRAもまた、わからないことをそのままにしておくことで完成するという、ある種伝統的日本文学を踏襲した作品と言えるだろう。
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